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■ 第二回:『阪神間モダニズムが演出した音楽の交差点』

 大正時代に健康をテーマにした生活改善運動が起こりました。そこで推奨された洋風住宅街は「文化村」と称されました。阪神間にも二つの文化村ができています。ひとつは芦屋川河口の西(神戸市東灘区深江南町)、もうひとつは芦屋川河口東の打出浜(芦屋市浜町)に位置していました。どちらにも芦屋海岸を好んだ外国人が多く居住しました。これらは阪神間の別荘や豪邸などとともに、新しいライフスタイルの発信拠点のひとつとなりました。

 また、20世紀初頭に勃発したロシア革命は多くのロシア人音楽家の流入を招いています。ピアニスト、アレクサンダー・ミハイロビッチ・ルーチンは1919年(大正8年)に神戸に着き、トアロードにピアノ塾を開いています。1920年代になると亡命したロシア人音楽家たちがつぎつぎに神戸にやってきました。ヴァイオリニストのモギレフスキー、ウェクスラー等。ピアニストのレオ・シロタ、フツェフ等。指揮者のヨセフ・ラスカ、朝比奈隆の師ウィルヘルム・メッテル等です。ルーチンを筆頭に、彼等の多くは神戸北野界隈に居を構え、個人教授で生計をたてるとともに阪神間にネットワークを築いていきます。
 なかでもルーチンはリーダー的な存在で、トーアホテルやオリエンタルホテルで発表会をおこなっていますし、支援者や生徒が多かった芦屋にも頻繁に通っています。そして大正13年にできた芦屋文化村の一角を夏の家として使うようになりました。ルーチンに関係するロシア人音楽家たちも自然と集うようになり、そこに日本人芸術家たちも訪れ、文化村は芸術家や文化人の交流の場(山田耕筰などの音楽家のほか洋画家小磯良平や詩人竹中郁なども訪れています)となりました。芦屋浜の自宅でヴァイオリンを練習していた貴志康一が、その音色に導かれて訪れたウェクスラーと出会い、師事するのもこうした背景があります。
 こうしたロシア人たちも世情が不安定になる昭和10年ごろからは次第に少なくなります(ルーチンなど神戸の外人墓地に眠っている方もいます)。しかし、わずか20年ほどの期間でしたが、19世紀末のヨーロッパ文化をもたらした彼等が、阪神間のクラシックシーンに与えた影響は非常に大きいものがあります。同時に阪神間には神戸というひと・もの・ことに関する情報の受容・発信拠点とともに、新しい文化の受け入れに寛容な生活文化圏(阪神間モダニズム)が形成されようとしていたからこそ彼等も比較的自由な音楽活動ができたともいえます。
(ロシア人音楽家を中心に記述しましたが、当時阪神間は多様な国の音楽家が活動する音楽の交差点のような場所でした。)


参照文献:
「阪神間モダニズム」(阪神間モダニズム展実行委員会編著)における小野高裕氏「音楽家の誕生◆貴志康一」
「ロシア人音楽家たち」
「日本人の足跡」産経新聞平成13年9月17日
甲南学園貴志康一記念室発行の資料 ほか多数

 

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