■連載第一回: 阪神間モダニズムと音楽家たち
   

六甲山と瀬戸内海に挟まれ、豊かな自然と、明るく穏やかな光にあふれる神戸、芦屋、西宮などの地域には明治末期から昭和初期にかけて阪神間モダニズムと称される独特の都市文化が育ちました。
江戸時代から大きな大名などがなく封建的な武家社会の影響があまりなかったこと、西国街道の要衝として生活に密着した商工業などが栄えていたこと、明治時代に開通した国鉄(現在のJR)のほか、阪神、阪急などの私鉄の開通などを契機に大阪の別荘地、住宅地化が起こり、近代的な生活文化圏が形成されたこと、関東大震災(1923年、大正12年)を機に文化人、経済人が多数関西に移住してきたこと、国際港神戸には多くの外国人が住み、人・もの・ことの交流という文化の翻訳と伝達の拠点があったことなどが阪神間モダニズムの基礎にあるといわれています。
阪神間モダニズムという自由で洗練された文化風土は西洋文化の流入のなかで形成された新しいライフスタイル(西洋化というトレンドのなかで興った和・洋、新・旧の融合された生活文化)であったともいえます。
この豊穣の時代を伝えるものとして、神戸生まれのグラフィックデザインの草分け的存在であった今竹七郎(1905〜2000)の次のような言葉が象徴的です。
「身近に外国人も多く欧米文化から無意識のうちに啓示を受けた。外国の雑誌がそろっていて、最新のアートが学べた。時代の先端を走っている実感があった」

この阪神間モダニズムは多様な芸術家や個性的な建築物、ライフスタイルなどを輩出していく、言わば文化の揺りかごのような役割をはたしました。
洋 画:小出楢重、小磯良平、田村孝之助、川西英、吉原治良ほか
日本画:村上華岳、山下摩起、水越松南ほか
写 真:中山岩太、ハナヤ勘兵衛ほか
デザイン:今竹七郎ほか
文 学:谷崎潤一郎、薄田泣菫、富田砕花ほか
建 築:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(神戸YMCA会館、関西学院神学館、小寺邸など)、渡辺節(市川邸洋館、乾邸など)、安井武雄(野村邸など)、清水英二(高嶋邸など)ほか
その他、宝塚歌劇、ダンスホール、新しい芸術活動などさまざまなシーンが創り出されていきました。
そして個性ある日本人音楽家も阪神間でさまざまな影響をうけています。音楽家山田耕作、ロシア人ヴァイオリニストモギレフスキーに師事した諏訪根自子、ピアニストルーチンの一番弟子であった加納和夫や同じく師事した大沢寿人、指揮者メッテルに師事した朝比奈隆、伝説のピアニスト原智恵子、夭折の天才音楽家貴志康一などです。



大正時代に起こった生活改善運動で推奨された洋風住宅街は「文化村」と称されました。阪神間にも二つの文化村ができています。ひとつは芦屋川河口の西(神戸市東灘区深江南町)、もうひとつは芦屋川河口東の打出浜(芦屋市浜町)に位置していました。どちらにも芦屋海岸を好んだ外国人が多く居住しました。これらは阪神間の別荘や豪邸などとともに、新しいライフスタイルの発信拠点のひとつとなりました。

20世紀初頭に勃発したロシア革命は多くのロシア人音楽家の流入を招きました。ピアニスト、アレクサンダー・ミハイロビッチ・ルーチンは1919年(大正8年)に神戸に着き、トアロードにピアノ塾を開いています。1920年代になると亡命したロシア人音楽家たちがつぎつぎに神戸にやってきました。ヴァイオリニストのモギレフスキー、ウェクスラー等。ピアニストのレオ・シロタ、フツェフ等。指揮者のヨセフ・ラスカ、朝比奈隆の師ウィルヘルム・メッテル等です。ルーチンを筆頭に、彼等の多くは神戸北野界隈に居を構え、個人教授で生計をたてるとともに阪神間にネットワークを築いていきます。
なかでもルーチンはリーダー的な存在で、トーアホテルやオリエンタルホテルで発表会をおこなっていますし、支援者や生徒が多かった芦屋にも頻繁に通っています。そして大正13年にできた芦屋文化村の一角を夏の家として使うようになりました。ルーチンに関係するロシア人音楽家たちも自然と集うようになり、そこに日本人芸術家たちも訪れ、文化村は芸術家や文化人の交流の場(山田耕作などの音楽家のほか洋画家小磯良平や詩人竹中郁なども訪れています)となりました。芦屋浜の自宅でヴァイオリンを練習していた貴志康一が、その音色に導かれて訪れたウェクスラーと出会い、師事するのもこうした背景があります。
こうしたロシア人たちも世情が不安定になる昭和10年ごろからは次第に少なくなります(ルーチンなど神戸の外人墓地に眠っている方もいます)。しかし、わずか20年ほどの期間でしたが、19世紀末のヨーロッパ文化をもたらした彼等が、阪神間のクラシックシーンに与えた影響は非常に大きいものがあります。同時に阪神間には神戸というひと・もの・ことに関する情報の受容・発信拠点とともに、新しい文化の受け入れに寛容な生活文化圏(阪神間モダニズム)が形成されていたからこそ彼等も比較的自由な音楽活動ができたともいえます。
(ロシア人音楽家を中心に記述しましたが、当時阪神間では多様な国の音楽家が活動していました)



貴志康一は1909年(明治42年)大阪に生まれ、芦屋で育ちました。ヴァイオリニストとしてデビューしたのち、作曲をパウル・ヒンデミット、指揮をヴィルヘルム・フルトヴェングラーに師事し、1934年(昭和9年)にはベルリンフィルハーモニー管弦楽団を指揮して、自作の交響組曲「日本スケッチ」、交響曲「仏陀」などを初演しています。日本でも新交響楽団(現NHK交響楽団)を指揮し、本邦初の暗譜による第九交響曲を演奏するなど活躍しましたが、1937年(昭和12年)、わずか28歳で他界しました。
 貴志は1971年製のストラディヴァリウス「キング・ジョージ三世」(英王室買い上げで、ジョージ三世が愛用していたもので、現在はスイスの財団が所有)を演奏に使っており、日本人が最初に耳にしたストラディヴァリウスであったといわれています。また湯川秀樹が1949(昭和24年)年に日本人初のノーベル賞を受賞したとき、授賞式晩餐会では日本の代表的な曲として貴志の「竹取物語」が演奏されました。

もともとは音楽よりも美術(油絵)を愛していた貴志ですが、1922年(大正11年)、12歳のとき神戸・新開地の衆楽館でヴァイオリンの世界的巨匠だったミッシャ・エルマンの演奏に衝撃を受け、啓示を受けたようにヴァイオリンの練習に集中していったといわれています。そして阪神間モダニズムが見えない神の手のように結びつけていった運命的な音楽家との出合い(例えば、亡命ロシア人ヴァイオリニストのミヒャエル・ウェクスラーなど)などを経ながら、甲南高等学校2年(17歳)のときに神戸港から単身でジュネーブ国立音楽院へと留学し、優秀な成績で卒業します。そしてヴァイオリニストとしてデビューし、音楽家としての地位を築いていきます。この生来の社交性や華やかさを持ち合わせた天才音楽家を育んだのは、多様な文化(人)の受容・交流・発信の拠点となった阪神間で醸成された都市文化(阪神間モダニズム)であったと言えます。
没後、貴志は長い間その実像が知られていませんでしたが、近年再評価の機運が高まっています。2003年10月10日に貴志の作品を集めた演奏会が神戸市の松方ホールで行われました。「よみがえる天才音楽家貴志康一」と題され、小松一彦の指揮のもとに、神戸市混声合唱団も貴志の歌曲を披露しました。

貴志の遺品はご遺族から母校である甲南高等学校・中学に寄贈され、貴志康一記念室で大切に保管されています。


貴志康一は未完の自伝的小説「恋」のなかで主人公「茂」を通じて次のように父に問いかけています。
『お父さん・・・(父)うん
音楽っていいものですね・・・(父)うん
一体音楽や絵や詩から受ける気持ちは、どうしてあんなに美しいんでせう
あれは人間に取り最も貴いものでせうか、又唯の楽しみか夢に過ぎないものでせうか。』
小説の中では、『父は何も答えず静かにほほえんだ。・・・』とあります。
答えはありませんでした。
ただ、最高の演奏に出会った(恋した?)後の貴志の人生は、音楽に触れることのすばらしさや幸福感を多くの人に届けようとする熱意と行動力に満ちています。
 17歳の貴志が神戸港から旅立ったとき、船上から父に手紙を綴っています。
「・・・・大阪湾を出るとき自分を静かにかへり見ました。世界中で一番幸福な東洋の赤い血のわきかへる若者の僕のすべき事をも考へました・・・僕の全力をこの使命の為に尽す事をお父さんにちかひます。世界の人は皆僕を待っていてくれるのです」

「なぜ音楽は私たちに必要なのでしょうか?」
常に問いかけられる問題ですが、貴志がもし生きていたら『音楽(芸術)は人間にとって最も貴いものだから』と答えてくれるかもしれません。

音楽(芸術)は私たちに安らぎをもたらし、私たちを勇気付け、励まし、国境や人種を超えて多様な人々の心を結び付けてくれます。音楽(芸術)が貴ばれる社会であることは、私たちが人間的に生きていくことができる社会、誰もが主体的に生きることができるユニバーサルな社会、そして何よりも平和な社会であることの証しなのだと思います。
私たちが音楽活動する神戸をはじめとする阪神間には、かつて多くの芸術家(音楽家)を輩出した豊かな文化の土壌があります。自由でおしゃれな阪神間モダニズムという都市文化の精神は後進の多くの芸術家、文化人に受け継がれ、言わば文化の地下水脈として今も私たちに影響し続けていると思います。

私たち演奏協会(神戸市室内合唱団、神戸市混声合唱団)は先人たちが築いてくれた音楽の素地や音楽にかけた思いを大切にしながら、おしゃれで心地よいクラシック音楽をお届けし、音楽のまち・神戸を創っていきたいと思います。また、演奏活動を通じて音楽との様々な出合いを提供し、将来を担う音楽家を育てていきたいと思っています。そして、音楽の感動を共有できるわたしたちのまち・神戸が、日本が、平和で心ゆたかな街であることを世界に発信していきたいと思います。


(文中敬称略しました)

参照文献: 「阪神間モダニズム」(阪神間モダニズム展実行委員会編著)における
小野高裕氏「音楽家の誕生◆貴志康一」
「ロシア人音楽家たち」
「日本人の足跡」
産経新聞平成13年9月17日
甲南学園貴志康一記念室発行の資料 ほか多数
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